岩永三五郎の石橋

1793年(寛政5年)「野津石工」宇七の次男として生まれ、藤原林七の弟子となる。天性の素質からアーチ型石橋の技術だけでなく土木全般に優れていた。「雄亀滝橋」を手始めに、八代藩、薩摩藩に招かれ「大平眼鏡橋」「西田橋」「江の口橋」など多くの橋を架けた。1851年(嘉永4年)59歳で大往生を遂げた。
「種山石工」の技術の向上、石橋の普及を図り大きな影響を与えたと思う。

雄亀滝橋
岩永三五郎の最初の石橋と言われる水路橋です。現在も現役で柏川井手の用水を田畑に流し続けている。深い谷に架けられた三五郎の技術を裏付けるものです。大牟田市の早鐘眼鏡橋(1674年)、八勢水路橋(1814年)に次ぐ三番目の水路橋です。

架設:1818年(文政元年)
雄亀滝橋
中 園 橋
八代藩に招かれた時に架けられた水路橋です。現役の水路で人目に付かないところで頑張っています。この時、八代の二見川に数橋残している。



架設:1834年(天保5年)
中 園 橋
西 田 橋
1840年(天保11年)薩摩藩に招かれ大小数々の 石橋を架設する事になるが、西田橋は薩摩藩の威厳を表す石橋となる。丸柱・手摺を採用している。三平の技術が生きている。鹿児島の浜町・祇園之洲の石橋公園に高麗橋、玉江橋と共に移設されている。

架設:1846年(弘化3年)
西 田 橋
江の口橋
薩摩での最後の橋がこの橋であり、三五郎が残した最後の橋でもある。薩摩にいた間に「種山石工」は大きく成長したと思われる。卯助・宇一・丈八兄弟が台頭してくる時です。
鹿児島県川内市高江町峰山小学校の横の八間川に架る。

架設:1849年(嘉永2年)
江の口橋
にしぶんの「三五郎考」  鹿児島編

鹿児島での石橋造りの功績が認められ、石橋公園に顕彰石像が建てら れている。1840年(天保11年)からの10年あまりで37の石橋を造りあ げている。他の護岸などの土木工事も行っているので物凄いことだと思 う。しかし、現存する石橋は数橋だけです。
八代藩から調所笑左衛門に招かれ鹿児島藩へ、八代で卯助兄弟等は石 橋造りの技を身につけていた。鹿児島での大型橋造りを通して弟子達が 棟梁としての技も習得していった。三五郎は、熊本のことも考えていたの ではないだろうか?。技術のある石工が一所に集まって、石橋を含む土 木工事、その技術の普及が遅れてはいけない、と。また、熊本での石橋 の需要が増えていることも。地元石工に任せれる所は任せ、数人づつ故 郷に返していたのだろう。